「・・・司、ごめん」
―――謝らなくていいから、とにかく、逃げるなよ・・・・。
そう言いたかったが、実際は顎の痛みをこらえるだけで精一杯だった。
「ちょっと顔、上げて、見せて―――」
「ん・・・」
言うとおりに顔を上げると、姫宮は今にも触れそうな程間近に顔を寄せた。
そして、司の顎を掴んで左右に揺らして観察してから、司の反応を見て言った。
「うん、大丈夫。骨も顎関節も異常ない」
「・・・・・」
―――顎関節・・・・。
そんなものや痛みよりも、今や司の意識は近距離にある姫宮の唇に集中していた。
「まだ、痛むか・・・?」
「―――うん。痛い・・・・心が・・・・」
「―――・・・・」
姫宮はちょっと驚いたように司を見ると、再び目を伏せた。
「姫宮が・・・何考えてるのか、俺にはさっぱりわかんねえよ・・・・。憎んでるって言ったかと思うと、そうじゃないって言うし、・・・かと思うと、もう会いたくないって拒絶しておいて、ファンだから役者はやめるなとか言うし・・・・。俺は、いったいどうすればいいんだよ、分かんねえよ・・・。俺は・・・・どうすれば、姫宮に好きになってもらえるんだ?・・・言ってくれよ・・・俺、なんでもするから、姫宮のためなら・・・どんな人間にだってなってみせるから」
「―――・・・・・」
「嘘じゃない・・・。姫宮の望むような人間になるから・・・だから、俺から逃げないでくれよ・・・・。もう我がままも言わない。・・・だから―――」
「―――・・・・・」
「姫宮・・・・?」
黙って俯いたままの姫宮の様子に司は焦りを覚えた。
―――もしかして・・・・すごく怒ってる・・・?
もはや絶望的な思いで目の前が真っ暗になった司の耳に、姫宮の声が聞こえた。
「なんで、そこまで言うんだ?・・・・お前、天下の小河見司だろうが?日本中、知らない人間なんかいないんだぞ。でも、俺は、一介のスタントマンで・・・・実質ただの貧乏フリーターで・・・・。お前と違ってなんの取り柄もないし・・・・」
「―――姫宮・・・・・」
司は絶句した。
明るくて、いつも友達に囲まれていて、恵まれた容姿を持ち、しかも運動神経抜群の姫宮に、もし取り柄がないというのなら、日本中の人間のほとんどが取り柄なしになってしまうではないか・・・・。
開いた口がふさがらない司に、さらに姫宮は続けた。
「・・・・だから、俺なんかにそんなこと言うな。もっとそれ相応の相手が・・・女の子がいくらでもいるだろ?」
―――俺なんか・・・・・・?
司はなんだか頭がクラクラしてきた。
姫宮は自分自身を過小評価しすぎている・・・。
その辺の女の子で代わりになるくらいなら、なんでこんなに苦労して・・・死ぬほど痛い思いまでして姫宮に執着する必要があるだろう?
まったく呆れるほど司の気持ちなど、分かってはいない―――。
―――しかし、怒っていないのならば、まだ見込みはある。
司はついに最後の賭けに出ることにした―――。
「姫宮・・・」
「―――何?」
「・・・キスしてもいい?」
「―――えっ・・・!?」
「痛くて、我慢できないんだ・・・・。姫宮にキスしたら、治るから・・・」
本当に我慢できないのは、姫宮の顔を間近で見たことによってさらに増幅してしまった欲情の方だったのだが・・・・。
「頼む・・・。一度だけでいいから・・・・そしたら、もう諦めるから、きっぱりと・・・。」
姫宮は驚くというより、呆気にとられたような表情で司の顔を見つめている。
もう我がままを言わないから――と言った矢先から、とんでもない我がままを言い出す司の難儀な性格にも、姫宮は免疫が出来てきたらしく、怒り出す気配はない。
やがて、怒り出すどころか涙を拭きながら笑い出した。
「司・・・懲りてないのかよ・・・?」
「うん。懲りてない」
きっぱりと言い放つ司の態度が可笑しかったのか、姫宮はさらに笑った。
なにがそんなに可笑しいのかと、司は少し憮然とした表情になる。
しばらくして、笑い疲れたように姫宮は静かに下を向いた。
「姫宮・・・?」
心配した司が思わず声をかけると、姫宮は顔を上げて司の瞳を見つめた。
「―――いいよ」
信じられない言葉に司は一瞬、聞き間違えかと思った。
「・・・いいって?キスしてもいいのか・・・?」
「・・・その代わり。本当に、もういい加減諦めろよ・・・」
「・・・・うん―――」
興奮と期待で、司の心臓は制御不能なほど高鳴った。
しかし、ここで安心するわけにはいかない・・・・。
空まで飛んでいきそうな気持ちを、司は「いや、まだだ」と引き締める。
今まで何度か味わった苦い(痛い)経験から、すでに学習していることだ。
―――姫宮は逃げる・・・・しかも異常に素早いし、強い・・・・
司が百パーセント本気を出しても、奇跡でも起こらない限り到底勝てる相手ではないことは、身をもって嫌というほど知っている。
いつ気が変わって、逃げ出すか、あるいは司を殴り飛ばすかもしれない・・・・。
その保障はゼロと言っても過言ではない。
ここは焦らずに、まずは出来得る限りの予防策を施しておくべきだろう。
「姫宮・・・いきなり殴らないだろうな?」
「―――殴らないよ、当たり前だろ・・・・」
「・・・・うん。でも万が一、もう一度あれを食らったら、いよいよ辞めるまでもなく俳優生命絶たれかねないっていうか・・・・」
「だから・・・殴らないってば」
姫宮は、司の言葉を冗談だと受け取ったらしく苦笑している。
しかし、司は冗談どころか、半分以上本気でそう思っているので笑えない。
―――自分のパンチを一度自分で食らってみろっつーの・・・・
「信用してないわけじゃないけどさ・・・・。でも、その前にひとつ、お願いがあるんだけど―――」
to be continued....